(文責:田中陽介/AsiaWise Cross-Border Consulting Singapore所属、インド駐在中)
インドのAarogya Setuに限らず、現在様々な国で、COVID-19の感染拡大を防止する目的のモバイルアプリが導入されています。本稿では、非常に早い段階から公開されていたシンガポールのモバイルアプリ・TraceTogetherについて解説するとともに、個人の位置情報の扱いという観点からインドのAarogya Setuと比較したいと思います。
1. TraceTogetherとは
TraceTogetherは、2020年3月20日に公開された接触追跡アプリです。シンガポール保健省(MOH)及び政府技術庁(GovTech)により開発されました。現在Android版とiOS版が用意されており、SMSを受信可能なシンガポールの電話番号があれば、誰でもこのアプリを使用することができます。
スマートフォンのアプリ上で電話番号を登録すると、アプリをインストールしているスマートフォンに対し、シンガポール政府のサーバーから固有IDが割り振られます。固有IDが割り振られたスマートフォン同士が一定時間以上近くにいた場合、Bluetooth通信を介してお互いの固有IDを送り合い、自身の固有IDが相手側のスマートフォンに、相手の固有IDが自身のスマートフォンに記録される仕組みになっています。
このコンセプト自体は、特に新しいものではありません。任天堂株式会社が2005年に発売したニンテンドーDSの「nintendogs」というソフトウェアにおいて実装された「すれちがい通信」は、よく似た特徴を持っています。仕組みとしては、他のユーザーの近くに一定時間以上いた場合に「すれちがい通信」が可能となるというものです。このソフトウェアではユーザーが仮想空間で子犬を飼うのですが、この「すれちがい通信」に成功した場合には、お互いの仮想空間の子犬がそれぞれ相手の「nintendogs」に遊びに行きます。
(「nintendogs」による「すれちがい通信」解説ページより/著者作成スクリーンショット)
この子犬に相当するのが、TraceTogetherでいうところの固有IDです。固有IDが割り振られたスマートフォンの近くを通るたびに、他人の固有IDが接触した時刻のタイムスタンプとともに端末内に蓄積されます。ちなみにTraceTogetherではどこに居たという位置情報は取得されません。誰と接触した可能性があるのかを固有IDを用いて知ることができるのみです。これらの情報は端末内に21日間保存されます。
シンガポールでCOVID-19に感染した人が判明した場合、保健省はまず本人からの聞き取り調査を行い、その人の過去14日間の行動範囲をマッピングします。この人がTraceTogetherを使用していた場合、スマートフォンに蓄積された他人の固有IDと接触した時刻のタイムスタンプは、保健省の求めに応じて開示することができます。保健省は、この固有IDに紐付けられた電話番号について、登録時に使用されたデータベースを用いて取得し、感染者と接触したと見られる人物と迅速に連絡を取ることができます。
(GovTechによるTraceTogether紹介動画より/著者作成スクリーンショット)
2. Aarogya Setuと個人の位置情報
他方インドのAarogya Setuでは、他社との接触に関する情報が端末内に保存されることはTraceTogetherと同様ですが、それに加え、個人の位置情報も取得され、政府のサーバーにアップロードされます。インド政府の説明によると、インドのような人口密度の高い国では、接触したアプリユーザーを特定するだけでなく、感染者が実際に歩いた経路を追跡する必要があるとしています。それにより感染の恐れがあるエリアを消毒することができ、感染の恐れがある人々の特定も可能になります。
また、ユーザーがアプリ上で自己診断テストを受け、位置情報と症状とを紐付けた情報を政府のサーバーにアップロードすることで、インド政府は、感染が広がり得るホットスポットを早い段階で特定できるようになり、感染の拡大防止に役立てることができます。
3. 最後に
このように、シンガポールとインドでは国の事情が大きく異なり、モバイルアプリによるCOVID-19の感染拡大防止を例にとっても、アプローチが大きく異なります。個人の位置情報をどう扱うのかという観点でも、そもそもそのようなデータを取得しないシンガポールと、感染拡大防止に必要だから取得するインドとでは、モバイルアプリの設計思想からして異なることがわかります。各国の事情を鑑みて、目的を達成する手段として、なるべく個人の権利を侵害しない手段を選択していくことが大切ではないかと思います。
AsiaWise Groupでは、シンガポールやインドといった国境を越えるクロスボーダーだけでなく、テクノロジーと個人情報といった分野を越えたクロスボーダーにも着目し、皆様の役に立つ情報を発信していきたいと考えております。